「血が止まるまで横になっといたほうがいいわ」
リエは散らかっていた小道具を隅の方に寄せた。
暫くすると勇一の血は止まった。
なにやらゴーという低音が耳に入る。
浩也は暗闇の中を見渡した。その音の方向に規則的に並んだ大きなライトが幾つも見えた。
「向こうからでっかい貨物船やしょ」
勇一が顎をしゃくる。
隆栄丸は和歌山港の航路の近くにいた。
隆栄丸の北側には、防波堤と護岸がへの字型に配置されている。隆栄丸は壁に背を向けるように、への字のくぼみの中央付近に停泊していた。
勇一が立ち上がってエンジンをかける。隆栄丸を先に進めて貨物船をかわすつもりだ。
隆栄丸は勢いよく進んだ。二、三分エンジン音が高鳴りした後、隆栄丸はまたエンジン音を下げた。
「もう大丈夫やしょ」
貨物船が隆栄丸の前方をゆっくり通り過ぎていく。
と直後、隆栄丸が空中に浮いた感じがした。
「あかん、三角波やぁ!」
勇一の声が早いか、浩也は一瞬で海に放り投げられた。方向感覚が全くない。気が付いたら冷たい海の中にいた。大きな力で体が押し上げられる。
顔が水面に出た。大きく傾いた隆栄丸が見える。今度は海中に引きずり込まれるほど降下した。浩也の体が冷たい海に翻弄される。
やがて上下の感覚を掴んだ浩也は、頭だけ何とか水面に出した。
勇一が何か叫んでいる。塩辛い水が鼻に入って咳き込んだ。が、何とか息は出来ている。
ザッバーンと大きな音がした。二、三度大波に没した後、髪の毛を後ろから鷲掴みにされた。
「じっとせい」
耳元で勇一の声が響いた。
「息溜めて上向け」
浩也は言われるとおりにした。
何度も何度も息を吸って仰向けになろうとした。が、下半身が沈んでいく。
徐々に波はにおさまってきた。
勇一は、浩也のベルトの所を掴んだまま立ち泳ぎをしていた。勇一の荒い息が耳元で聞こえる。二人の体は上下しながらも隆栄丸に近づいていた。
ごん! と頭に固いものが当たった。隆栄丸だった。
勇一が隆栄丸についた車のタイヤにしっかりと手をかけていた。リエの細い手が伸びる。
「も、もう大丈夫やしょ」
切れ切れの息で勇一が言った。
二人は何とか隆栄丸に這い上がると、死んだように仰向けになった。荒く早い息が交錯する。時折、リエのしゃくりあげる泣き声が聞こえた。
暫く全くしゃべれなかった。
不思議なことに寒さも感じない。
どれだけ時間が過ぎただろう。
「おい、生きてるか」
やっと勇一が言葉を発した。
浩也はか細い声で「はい」とだけ答えたあと、激しく咳き込んだ。リエが寄り添って背中をさする。
見上げた星空がグラリと揺らいだ。
「これやったんかっしょ、ワイの親父とお前のおかん」
勇一の言うとおりかもしれない。
さっきと同じような状態で母が海に落ち、隆三が助けに入った。船になれていない母や自分が、高波でバランスを失って海に投げ出されるのは当たり前だ。
生死を分けたのは若さだろう。五十才を過ぎた隆三に、助けるほどの体力は無い。隆三自身も、夜の冷たい海に入ればどうなるかはわかっていただろう。
命も省みず母を助けようと飛び込んだ隆三。
「あんながいな三角波はじめてやしょ」
勇一がポツリと言った。
浩也は三角波を知らなかった。
三角波とは、大きな船が進む時に出来る航跡波と、その波が防波堤にあたって跳ね返ってくる波とが重なった波のことだ。
二つの波が重なるため倍以上の高さになる。隆栄丸のいた場所は、漁師仲間でもよく知られる三角波の発生場所だった。勇一も知ってはいたが、山立てに夢中になってそのことを忘れていた。
「剛右衛門の呪いってほんまにあるんとちやうか。さっき笹竹沈める時もワイの足にロープが絡まって海中に引きずり込まれるところやったんやしょ。はずれんかったら今頃ワイは海の底で沈んだままやしょ」
そこまで言って勇一は何かに気づいたように血相を変えた。
まさか・・・・・・。
勇一の話では、隆三と母が出航する時にもオモリのついた同じ笹竹が積み込まれていた。
浩也は、起き上がると船縁にしがみついて真っ暗な海面に視線を落とした。
勇一もリエも言葉を失った。
「貴志さん、明日潜ってください」
浩也の絞り出すような声に、勇一は「おぅ、わかった」とだけ答えた。
その晩、浩也は勇一にすすめられて貴志家に泊まることになった。
貴志家は祖母と勇一の二人暮らしで、今はリエが夕食の手伝いなどに通っている状態だ。
リエは、今夜は母の家に帰り明日の朝出てくるとのことだ。
時計を見ると十時を回っている。祖母は既に床についていた。
勇一と浩也は順番に風呂に入った。風呂から上がると広い和室に布団が並べられ、勇一があぐらをかいて煙草を吸っていた。
勇一のまぶたには絆創膏が貼られている。
「喉渇いたら冷蔵庫にジュースあるから飲んどけや」
と勇一が振り向いた。
「ありがとうございます」
浩也は濡れた髪をタオルで丁寧に拭いた。
床の間の横に豪華な額縁が掲げられている。人命救助の感謝状だった。
「まあ、凄い親父やったわ」
感謝状を見る浩也の視線に気付いた勇一が口を開いた。
四年ほど前、和歌山港で貨物船のスクリューにロープが絡みついて動かなくなった。ロープを取り除くため、近くで潜水作業の待機をしていた隆栄丸に声がかかった。
貨物船の船尾で準備をしていると、前方の方からけたたましい声が上がった。
人が落ちたと叫んでいる。
どうやら貨物船と岸壁の隙間に釣り人が落ち込んだらしい。隙間は防舷材の幅の一メートル程しかない。とてつもなく大きな貨物船は防舷材を軋ませて揺れている。
落ちた釣り人は、井戸の中に落ち込んだようなもので掴まるところがない。
未だ潜水服を着ていなかった隆三は、そのまま飛び込むと素潜りで貨物船の船底をかいくぐり釣り人に到達した。
もがく釣り人を背後から捉えると落ち着かせ、ロープの投げられるのを待った。
「船底に消えた親父が浮いて来ないんやないかと、ワイは足が震えたっしょ」
と、勇一は煙草を灰皿に押しつけて話を続けた。
「上がってきた親父は、あんぐらいの素潜りやったら神崎一門なら誰でもやらあって、豪快に笑い飛ばしてな」
「神崎一門?」
浩也が訊く。
「ああ潜水士集団のことや。親父はもともと徳島の人間なんやしょ」
勇一は浩也を見上げた。
隆三は、徳島県南部にある伊島と言う小さな島の出身だった。
伊島は外洋に面し、アワビやサザエ、海鼠などの海産物が豊富に取れる。このため、島の住人は男女問わず潜水作業に長けていた。
高度経済成長期に入ると港湾開発が始まり、伊島の男たちは給料の高い港湾開発の潜水士として近畿の各地に出て行った。
潜水に長けた伊島の強者たちは瞬く間に一大勢力を結成し、いつの頃からか神崎一門と港湾関係者の間から呼ばれるようになった。
隆三は神崎一門に属し、独身の頃は大阪港で働いていたが、やがて和歌山港に居着いてしまった。
その潜水方法は、浩也の全く知らないカブト式と呼ばれるものだ。
カブト式は、小さな丸窓のついた真鍮製のヘルメットを潜水服と連結し、空気をゴムホースで船上から送り込む潜水方式だ。
空気は、ヘルメットと連結した潜水服の中にも入るため大きな浮力が生じる。このため、総重量九十キロにも及ぶ鉛靴や鉛ベルトなどが装着された。この状態で一個数百キロもの大石を、畳を敷いたように海底に積んでいく。
この防波堤の基礎づくりが隆三の得意の仕事だった。
「親父はワイに後を継がせようとしてな、厳しかったで小さい頃から船に乗せられてよ。お姉ちゃんも大変やったわ」
と、勇一は頭をポリポリとかいた。
「船に弱かったんですね」
浩也はリエから聞かされた話を思い出した。
「ああワイも最初は吐いて吐いて、でも直ぐに慣れよったわ。お姉ちゃんは全然強うならんでかわいそうなぐらい弱かったんやしょ。ほんで船なんか乗れへん言うて中学の時家出て行きおってな。ワイはそん時はこんな親父なんかおらん方がましやって思うた。明けてもくれても海の話ばっかしでとにかく潜水士になる事以外は許してくれんかった。まあそんな親父が海で死ぬやなんて、ほんまに親父らしい最期かもしれんけどな」
「実は、僕のお父さんも海で死んだんです」
言って浩也はうつむいた。
「・・・・・・」
勇一は浩也を凝視するとごくりと息を飲んだ。
「僕が二歳の頃なので、お父さんの記憶は全然ありませんけど」
「おまんの親父、漁師やったんかしょ」
「いえ違います」
勇一は下唇を噛んで視線を泳がせるとそれ以上は訊かなかった。
浩也が精一杯会話に応じているという雰囲気をくみ取ったのだろう。
「疲れたからもう寝るか」
勇一は浩也の返事も待たずに電気を消して床についた。
ガバチャのひとり言
小説の中の隆三と勇一の仕事がこれです。
今では数少ないカブト式潜水士。
数年前にガバチャが撮影しました。
ガバチャの仕事って・・・秘密秘密

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