「そんなあほな、あのかがり火が隠れるっちゅうたら何百トン、いや何千トンもあるほどのよっぽどでかい船やないと隠れんどぉ。だいたい音が全然きこえんやっしょ」
 勇一がリエにくってかかる。



 リエも勇一も言っていることは正しい。
 かがり火の点滅はそれ意外に説明がつかない。



 だが、二人の話を両立させる巨大な船が明かりもつけずに夜航行などするはずはない。 密漁目的にしても船が大きすぎる。
 一体なんなんだ?



 神無月から暗雲が流れて切れた。うっすらと海上が煌めく。



「きゃーっ」
 リエが悲鳴を上げて浩也にしがみついた。



 リエは、ただ小刻みに身体を震わせ言葉を発しない。浩也は辺りを見回した。



 えっ。



 縦に伸びる細い一本の線がくっきりと見える。
 それは電信柱が暗い海の中で建って揺らいでいるようだ。



「な、なんなんやっしょあれ。ば、化けもんかっ」
 勇一が慌てて足下を探り始めた。



「ハッカーどこいったハッカー」
 勇一が狼狽える。



「確か艫に」
 リエにしがみつかれ動きの取れない浩也が言う。勇一は素早く船尾に移動すると長い竹のハッカーを槍のように持ち構えた。



「の、呪いなんかあるはずねえんじゃ」
 勇一は大きく息を吐いた。



 電信柱のようなものは、揺らぎながらこちらに近づいてくる。音は全く聞こえない。



 浩也は気がどうにかなりそうだった。



 と、再び暗雲が神無月を覆った。漆黒の闇が再び周囲を覆う。電信柱のような化け物の姿が消えた。隆栄丸はひたすら姿を隠すように静まり続ける。



 エンジンをかけた瞬間、見つかって一飲みされるのではないのか。あらぬ想像で浩也の恐怖心はつのるばかりだ。



 勇一も同様なのかエンジンをかけて逃げることをしない。リエはただしゃがんで震えているだけだ。



「親父の敵うったる」
 押し殺した声で勇一が言った時、暗闇の向こうでヒューッと風を切る音がした。
 それは上空の方から聞こえたようだった。



  隆栄丸を今までにはない大きな波が押し上げる。



 近くに何かがいる。



 規則的な押し波で二、三度船が隆起した時、浩也の目前に見上げるほどの白い鉄柱が降りかかってきた。



「うぉーっ」
 勇一が悲鳴を上げて転んだ。



 隆栄丸が軋みながら大きく傾く。浩也はバランスを崩しながらも、しっかりとその巨大な物体を凝視した。



 ヨット! 馬鹿でかいヨットだ。



 そびえる鉄柱に張り付く三角形の黒帆。船尾に二人の人影が見える。その一人が綱を持って大きく仰け反った。目出し帽から白目がぎょろりとこちらをにらむ。



 浩也は腰が抜けたように動けなかった。



 ヨットは隆栄丸を掠めるとそのまま通り過ぎてしまった。



 勇一がコトンとハッカーを手放す。



 暗闇の向こうからドルルルというエンジン音が鳴った。ヨットにエンジンがかかったのだ。照明のついたヨットが遠ざかっていく。



「ヨットのくそ野郎!」
 勇一が慌ててエンジンをかけた。



「やめてー」
 リエが声を張り上げる。勇一が船を進めるのを止めた。



 やがてヨットの明かりは小さくなって、エンジン音も聞こえなくなった。



 勇一の荒い息が聞こえる。リエはひれ伏したまま動かなかった。船の揺れが徐々に収まっていく。



 三人は暫く押し黙ったままだった。海のざわめきだけが隆栄丸を包む。



「ただの夜航海?」
 半泣きのリエの声。



「ただの夜航海が電気を全部消すかぁ。どっちにしたって、ぶつかっとったら大事故やったいしょ」
 勇一が語気を荒げる。



 浩也の目に目出し帽の姿が焼き付いていた。あのヨットの動きは不自然きわまりない。



 ヨットの明かりは雑賀崎の沖を掠め見えなくなった。



 勇一が天を仰ぐ。浩也とリエも月を望んだ。ちぎれ雲の去った高い夜空に、神無月が浮いている。



「山立てや、山立てぇ」
 勇一は乱暴に言い放つと舵を握った。浩也とリエも所定の位置に戻った。
 三人はまた山立てを再開した。 



「もう少しやわ」
 勢いのないリエの声。
 じわりと和歌山城の上に神無月が迫ってきた。



「かがり火は出会ってます」
 艫で浩也が繰り返す。



 隆栄丸はエンジン音を小刻みに上げ下げして、位置の微調整に入った。短い周期の揺れが身体を震わせる。



「今よ」
「かがり火も出会ってます」
 浩也とリエが同時に叫んだ。



 勇一は傍らに置いたブロックを結わえたロープを瞬時に掴むと、一回後ろに反動をつけて海中に投げ入れた。



 ドッボン! と言う音の直後、勇一の短い悲鳴が上がった。笹竹が海中に強引に引き込まれる時、その笹竹が立ち上がって勇一の顔を叩き上げたようだ。



 リエが慌てて駆け寄る。勇一は左眼を押さえたままうずくまった。



 その手からどす黒い血がトロリと落ちた。



「きゃぁ」
 リエが悲鳴を上げる。



「眼ですか?」
 浩也が慌てて近寄った。



「眼やない。まぶたやと思うっしょ」
 勇一は片手で押さえたまましっかり答えた。



 浩也が勇一を照明のところに連れて行った。



 勇一の顔を覗き込んだリエは、今度はさっきより大きな悲鳴を上げた。



 勇一の左まぶたの上が真横にざっくり割れていた。



「へへ、剛右衛門の呪いやしょ」
 勇一はタオルを取り出し眼を押さえた。



 勇一はリエを安心させるための冗談だったのだろうが、暗闇でぼんやりと照らしだされた勇一の姿は妙に不気味だった。



 何故か一瞬、勇一が勇一でないような気がして、浩也はブルルと背筋が震えた。



 勇一は血で染まっていくタオルを何度も押しつけ直した。




鮎釣り師のひとり言



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