「血が止まるまで横になっといたほうがいいわ」
リエは散らかっていた小道具を隅の方に寄せた。
暫くすると勇一の血は止まった。
なにやらゴーという低音が耳に入る。
浩也は暗闇の中を見渡した。その音の方向に規則的に並んだ大きなライトが幾つも見えた。
「向こうからでっかい貨物船やしょ」
勇一が顎をしゃくる。
隆栄丸は和歌山港の航路の近くにいた。
隆栄丸の北側には、防波堤と護岸がへの字型に配置されている。隆栄丸は壁に背を向けるように、への字のくぼみの中央付近に停泊していた。
勇一が立ち上がってエンジンをかける。隆栄丸を先に進めて貨物船をかわすつもりだ。
隆栄丸は勢いよく進んだ。二、三分エンジン音が高鳴りした後、隆栄丸はまたエンジン音を下げた。
「もう大丈夫やしょ」
貨物船が隆栄丸の前方をゆっくり通り過ぎていく。
と直後、隆栄丸が空中に浮いた感じがした。
「あかん、三角波やぁ!」
勇一の声が早いか、浩也は一瞬で海に放り投げられた。方向感覚が全くない。気が付いたら冷たい海の中にいた。大きな力で体が押し上げられる。
顔が水面に出た。大きく傾いた隆栄丸が見える。今度は海中に引きずり込まれるほど降下した。浩也の体が冷たい海に翻弄される。
やがて上下の感覚を掴んだ浩也は、頭だけ何とか水面に出した。
勇一が何か叫んでいる。塩辛い水が鼻に入って咳き込んだ。が、何とか息は出来ている。
ザッバーンと大きな音がした。二、三度大波に没した後、髪の毛を後ろから鷲掴みにされた。
「じっとせい」
耳元で勇一の声が響いた。
「息溜めて上向け」
浩也は言われるとおりにした。
何度も何度も息を吸って仰向けになろうとした。が、下半身が沈んでいく。
徐々に波はにおさまってきた。
勇一は、浩也のベルトの所を掴んだまま立ち泳ぎをしていた。勇一の荒い息が耳元で聞こえる。二人の体は上下しながらも隆栄丸に近づいていた。
ごん! と頭に固いものが当たった。隆栄丸だった。
勇一が隆栄丸についた車のタイヤにしっかりと手をかけていた。リエの細い手が伸びる。
「も、もう大丈夫やしょ」
切れ切れの息で勇一が言った。
二人は何とか隆栄丸に這い上がると、死んだように仰向けになった。荒く早い息が交錯する。時折、リエのしゃくりあげる泣き声が聞こえた。
暫く全くしゃべれなかった。
不思議なことに寒さも感じない。
どれだけ時間が過ぎただろう。
「おい、生きてるか」
やっと勇一が言葉を発した。
浩也はか細い声で「はい」とだけ答えたあと、激しく咳き込んだ。リエが寄り添って背中をさする。
見上げた星空がグラリと揺らいだ。
「これやったんかっしょ、ワイの親父とお前のおかん」
勇一の言うとおりかもしれない。
さっきと同じような状態で母が海に落ち、隆三が助けに入った。船になれていない母や自分が、高波でバランスを失って海に投げ出されるのは当たり前だ。
生死を分けたのは若さだろう。五十才を過ぎた隆三に、助けるほどの体力は無い。隆三自身も、夜の冷たい海に入ればどうなるかはわかっていただろう。
命も省みず母を助けようと飛び込んだ隆三。
「あんながいな三角波はじめてやしょ」
勇一がポツリと言った。
浩也は三角波を知らなかった。
三角波とは、大きな船が進む時に出来る航跡波と、その波が防波堤にあたって跳ね返ってくる波とが重なった波のことだ。
二つの波が重なるため倍以上の高さになる。隆栄丸のいた場所は、漁師仲間でもよく知られる三角波の発生場所だった。勇一も知ってはいたが、山立てに夢中になってそのことを忘れていた。
「剛右衛門の呪いってほんまにあるんとちやうか。さっき笹竹沈める時もワイの足にロープが絡まって海中に引きずり込まれるところやったんやしょ。はずれんかったら今頃ワイは海の底で沈んだままやしょ」
そこまで言って勇一は何かに気づいたように血相を変えた。
まさか・・・・・・。
勇一の話では、隆三と母が出航する時にもオモリのついた同じ笹竹が積み込まれていた。
浩也は、起き上がると船縁にしがみついて真っ暗な海面に視線を落とした。
勇一もリエも言葉を失った。
「貴志さん、明日潜ってください」
浩也の絞り出すような声に、勇一は「おぅ、わかった」とだけ答えた。
その晩、浩也は勇一にすすめられて貴志家に泊まることになった。
貴志家は祖母と勇一の二人暮らしで、今はリエが夕食の手伝いなどに通っている状態だ。
リエは、今夜は母の家に帰り明日の朝出てくるとのことだ。
時計を見ると十時を回っている。祖母は既に床についていた。
勇一と浩也は順番に風呂に入った。風呂から上がると広い和室に布団が並べられ、勇一があぐらをかいて煙草を吸っていた。
勇一のまぶたには絆創膏が貼られている。
「喉渇いたら冷蔵庫にジュースあるから飲んどけや」
と勇一が振り向いた。
「ありがとうございます」
浩也は濡れた髪をタオルで丁寧に拭いた。
床の間の横に豪華な額縁が掲げられている。人命救助の感謝状だった。
「まあ、凄い親父やったわ」
感謝状を見る浩也の視線に気付いた勇一が口を開いた。
四年ほど前、和歌山港で貨物船のスクリューにロープが絡みついて動かなくなった。ロープを取り除くため、近くで潜水作業の待機をしていた隆栄丸に声がかかった。
貨物船の船尾で準備をしていると、前方の方からけたたましい声が上がった。
人が落ちたと叫んでいる。
どうやら貨物船と岸壁の隙間に釣り人が落ち込んだらしい。隙間は防舷材の幅の一メートル程しかない。とてつもなく大きな貨物船は防舷材を軋ませて揺れている。
落ちた釣り人は、井戸の中に落ち込んだようなもので掴まるところがない。
未だ潜水服を着ていなかった隆三は、そのまま飛び込むと素潜りで貨物船の船底をかいくぐり釣り人に到達した。
もがく釣り人を背後から捉えると落ち着かせ、ロープの投げられるのを待った。
「船底に消えた親父が浮いて来ないんやないかと、ワイは足が震えたっしょ」
と、勇一は煙草を灰皿に押しつけて話を続けた。
「上がってきた親父は、あんぐらいの素潜りやったら神崎一門なら誰でもやらあって、豪快に笑い飛ばしてな」
「神崎一門?」
浩也が訊く。
「ああ潜水士集団のことや。親父はもともと徳島の人間なんやしょ」
勇一は浩也を見上げた。
隆三は、徳島県南部にある伊島と言う小さな島の出身だった。
伊島は外洋に面し、アワビやサザエ、海鼠などの海産物が豊富に取れる。このため、島の住人は男女問わず潜水作業に長けていた。
高度経済成長期に入ると港湾開発が始まり、伊島の男たちは給料の高い港湾開発の潜水士として近畿の各地に出て行った。
潜水に長けた伊島の強者たちは瞬く間に一大勢力を結成し、いつの頃からか神崎一門と港湾関係者の間から呼ばれるようになった。
隆三は神崎一門に属し、独身の頃は大阪港で働いていたが、やがて和歌山港に居着いてしまった。
その潜水方法は、浩也の全く知らないカブト式と呼ばれるものだ。
カブト式は、小さな丸窓のついた真鍮製のヘルメットを潜水服と連結し、空気をゴムホースで船上から送り込む潜水方式だ。
空気は、ヘルメットと連結した潜水服の中にも入るため大きな浮力が生じる。このため、総重量九十キロにも及ぶ鉛靴や鉛ベルトなどが装着された。この状態で一個数百キロもの大石を、畳を敷いたように海底に積んでいく。
この防波堤の基礎づくりが隆三の得意の仕事だった。
「親父はワイに後を継がせようとしてな、厳しかったで小さい頃から船に乗せられてよ。お姉ちゃんも大変やったわ」
と、勇一は頭をポリポリとかいた。
「船に弱かったんですね」
浩也はリエから聞かされた話を思い出した。
「ああワイも最初は吐いて吐いて、でも直ぐに慣れよったわ。お姉ちゃんは全然強うならんでかわいそうなぐらい弱かったんやしょ。ほんで船なんか乗れへん言うて中学の時家出て行きおってな。ワイはそん時はこんな親父なんかおらん方がましやって思うた。明けてもくれても海の話ばっかしでとにかく潜水士になる事以外は許してくれんかった。まあそんな親父が海で死ぬやなんて、ほんまに親父らしい最期かもしれんけどな」
「実は、僕のお父さんも海で死んだんです」
言って浩也はうつむいた。
「・・・・・・」
勇一は浩也を凝視するとごくりと息を飲んだ。
「僕が二歳の頃なので、お父さんの記憶は全然ありませんけど」
「おまんの親父、漁師やったんかしょ」
「いえ違います」
勇一は下唇を噛んで視線を泳がせるとそれ以上は訊かなかった。
浩也が精一杯会話に応じているという雰囲気をくみ取ったのだろう。
「疲れたからもう寝るか」
勇一は浩也の返事も待たずに電気を消して床についた。
ガバチャのひとり言
小説の中の隆三と勇一の仕事がこれです。
今では数少ないカブト式潜水士。
数年前にガバチャが撮影しました。
ガバチャの仕事って・・・秘密秘密

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小説「神無月の頃」 その15
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「そんなあほな、あのかがり火が隠れるっちゅうたら何百トン、いや何千トンもあるほどのよっぽどでかい船やないと隠れんどぉ。だいたい音が全然きこえんやっしょ」
勇一がリエにくってかかる。
リエも勇一も言っていることは正しい。
かがり火の点滅はそれ意外に説明がつかない。
だが、二人の話を両立させる巨大な船が明かりもつけずに夜航行などするはずはない。 密漁目的にしても船が大きすぎる。
一体なんなんだ?
神無月から暗雲が流れて切れた。うっすらと海上が煌めく。
「きゃーっ」
リエが悲鳴を上げて浩也にしがみついた。
リエは、ただ小刻みに身体を震わせ言葉を発しない。浩也は辺りを見回した。
えっ。
縦に伸びる細い一本の線がくっきりと見える。
それは電信柱が暗い海の中で建って揺らいでいるようだ。
「な、なんなんやっしょあれ。ば、化けもんかっ」
勇一が慌てて足下を探り始めた。
「ハッカーどこいったハッカー」
勇一が狼狽える。
「確か艫に」
リエにしがみつかれ動きの取れない浩也が言う。勇一は素早く船尾に移動すると長い竹のハッカーを槍のように持ち構えた。
「の、呪いなんかあるはずねえんじゃ」
勇一は大きく息を吐いた。
電信柱のようなものは、揺らぎながらこちらに近づいてくる。音は全く聞こえない。
浩也は気がどうにかなりそうだった。
と、再び暗雲が神無月を覆った。漆黒の闇が再び周囲を覆う。電信柱のような化け物の姿が消えた。隆栄丸はひたすら姿を隠すように静まり続ける。
エンジンをかけた瞬間、見つかって一飲みされるのではないのか。あらぬ想像で浩也の恐怖心はつのるばかりだ。
勇一も同様なのかエンジンをかけて逃げることをしない。リエはただしゃがんで震えているだけだ。
「親父の敵うったる」
押し殺した声で勇一が言った時、暗闇の向こうでヒューッと風を切る音がした。
それは上空の方から聞こえたようだった。
隆栄丸を今までにはない大きな波が押し上げる。
近くに何かがいる。
規則的な押し波で二、三度船が隆起した時、浩也の目前に見上げるほどの白い鉄柱が降りかかってきた。
「うぉーっ」
勇一が悲鳴を上げて転んだ。
隆栄丸が軋みながら大きく傾く。浩也はバランスを崩しながらも、しっかりとその巨大な物体を凝視した。
ヨット! 馬鹿でかいヨットだ。
そびえる鉄柱に張り付く三角形の黒帆。船尾に二人の人影が見える。その一人が綱を持って大きく仰け反った。目出し帽から白目がぎょろりとこちらをにらむ。
浩也は腰が抜けたように動けなかった。
ヨットは隆栄丸を掠めるとそのまま通り過ぎてしまった。
勇一がコトンとハッカーを手放す。
暗闇の向こうからドルルルというエンジン音が鳴った。ヨットにエンジンがかかったのだ。照明のついたヨットが遠ざかっていく。
「ヨットのくそ野郎!」
勇一が慌ててエンジンをかけた。
「やめてー」
リエが声を張り上げる。勇一が船を進めるのを止めた。
やがてヨットの明かりは小さくなって、エンジン音も聞こえなくなった。
勇一の荒い息が聞こえる。リエはひれ伏したまま動かなかった。船の揺れが徐々に収まっていく。
三人は暫く押し黙ったままだった。海のざわめきだけが隆栄丸を包む。
「ただの夜航海?」
半泣きのリエの声。
「ただの夜航海が電気を全部消すかぁ。どっちにしたって、ぶつかっとったら大事故やったいしょ」
勇一が語気を荒げる。
浩也の目に目出し帽の姿が焼き付いていた。あのヨットの動きは不自然きわまりない。
ヨットの明かりは雑賀崎の沖を掠め見えなくなった。
勇一が天を仰ぐ。浩也とリエも月を望んだ。ちぎれ雲の去った高い夜空に、神無月が浮いている。
「山立てや、山立てぇ」
勇一は乱暴に言い放つと舵を握った。浩也とリエも所定の位置に戻った。
三人はまた山立てを再開した。
「もう少しやわ」
勢いのないリエの声。
じわりと和歌山城の上に神無月が迫ってきた。
「かがり火は出会ってます」
艫で浩也が繰り返す。
隆栄丸はエンジン音を小刻みに上げ下げして、位置の微調整に入った。短い周期の揺れが身体を震わせる。
「今よ」
「かがり火も出会ってます」
浩也とリエが同時に叫んだ。
勇一は傍らに置いたブロックを結わえたロープを瞬時に掴むと、一回後ろに反動をつけて海中に投げ入れた。
ドッボン! と言う音の直後、勇一の短い悲鳴が上がった。笹竹が海中に強引に引き込まれる時、その笹竹が立ち上がって勇一の顔を叩き上げたようだ。
リエが慌てて駆け寄る。勇一は左眼を押さえたままうずくまった。
その手からどす黒い血がトロリと落ちた。
「きゃぁ」
リエが悲鳴を上げる。
「眼ですか?」
浩也が慌てて近寄った。
「眼やない。まぶたやと思うっしょ」
勇一は片手で押さえたまましっかり答えた。
浩也が勇一を照明のところに連れて行った。
勇一の顔を覗き込んだリエは、今度はさっきより大きな悲鳴を上げた。
勇一の左まぶたの上が真横にざっくり割れていた。
「へへ、剛右衛門の呪いやしょ」
勇一はタオルを取り出し眼を押さえた。
勇一はリエを安心させるための冗談だったのだろうが、暗闇でぼんやりと照らしだされた勇一の姿は妙に不気味だった。
何故か一瞬、勇一が勇一でないような気がして、浩也はブルルと背筋が震えた。
勇一は血で染まっていくタオルを何度も押しつけ直した。
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小説「神無月の頃」 その14
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浩也は今日の天気を何日も前から願っていた。
和泉山脈から黒いちぎれ雲が流れているものの、空全体からはたいした量ではない。 天気予報では夜半前から下り坂らしいが、黄金色の満月は見事なまでに夜空をスッパリと切り抜いている。
あの日の月と同じだ。
「すげー満月やしょ」
勇一の声が弾む。
「星もすごいわ」
リエの声に、浩也は見上げた。満天下の星が眼に落ちてくる。刹那、隆栄丸が宇宙船になっておびただしい星の中を遊泳しているように思えた。
「おい、星やなしにかがり火もちゃんとみとけよ」
躁船室の明かりに勇一の横顔が浮かぶ。
かがり火は、真っ暗闇の海にくっきりと浮かんでいた。
あれ? 浩也の目にかがり火の色とは違う明かりが見えた。それは沖の島の南側で揺れて直ぐに消えた。勇一に告げようと振り返るとリエと視線があった。
「見た?」
リエは少し眉を吊り上げている。
「何の明かりです」
浩也が問う。
「船の明かりやと思うわ」
リエは舵を握る勇一に近寄ってそのことを告げた。
「どうせチヌの夜釣りやしょ」
勇一は薄笑って動じない。
「ここは禁漁区よ」
「密漁やっしょ」
「まさか・・・・・・」
リエは怯えた表情で浩也に振り返った。浩也もとっさに思いついたが、口には出さなかった。
「つけられてるんじゃないの」
リエの語尾が震える。勇一は目を丸くしてリエを見返すと、首を左右に振って辺りを見回した。
「どういうことやぁ」
勇一がリエに振り向く。
「他にも同じ事をしようとしている人がいるんやないの」
「お、脅かすなって」
勇一が吐き捨てる。
「あり得るわ」
リエは辺りを見回した。
今日同じ事をしようとしている者が他にもいるのなら、それは母や隆三に手をかけた者の可能性が高い。
大金は人間を一瞬で邪悪な魔物に変える。漆黒の闇の中で言いようのない不安が隆栄丸を包む。突然手が伸びてきて海中に引きずり込まれるようなあらぬ恐怖、それはやがて入れ替わるように、巨大な憎悪となって浩也の身体に満ちてきた。
「やったらあこいやっ」
勇一の怒声が鳴った。驚いたリエが首をすくめる。
自分が想像しているところまで、勇一の想像も膨らんだのだろう。本当にそんな相手がいるのなら、掴みかかって殴り倒してやる。
浩也の中で、ぶつけようのない怒りが焦点の定まらないまま膨張を続けた。
だが、その明かりは二度とは見えなかった。勇一の言うとおり密漁船だったのかもしれない。
かがり火が隆栄丸の東進によって徐々に接近する。
「どないやしょ」
勇一が大声で振り向く。
「あと少しです」
浩也は立ち上がって答えた。
かがり火はいよいよ接近した。もう少しだ。
「もうちょっと、もうちょっと・・・・・・はい、出会ったぁ!」
浩也が叫ぶ。
勇一が慌てて舵をきった。
隆栄丸は左に大きく船体を傾け舳先を南に振った。
勇一が、かがり火を縦に重ねて見ながら南進の速度を上げる。
やがて前方に、加太から連なる和歌山の夜景が見え始めた。
星が降り積もったような夜景。その上には見事なまでの神無月が浮かんでいる。
二百年前につむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)が見た月も、今浮かんでいる月も変わりない。時間と共に移り変わっていくのは、人間が住む地表だけだ。
隆栄丸が住友金属の高炉の南側に差し掛かった。
「おぉ見てみい、城が光ってらっしょ」
勇一が言った。
遠くに白光する和歌山城が浮かびあがった。
和歌山城は観光シーズン中はライトアップを行っている。浩也はそんなことも計算済みだ。南進と共に神無月が徐々に城の上空に近づく。
「僕は艫でかがり火を見ます」
と浩也。
「私は神無月と城を見るわ」
とリエ。
「よっしゃ、一致したらワイが竹落とすっしょ!」
勇一は片手で舵を握ったまましゃがむと、笹竹についたロープを確認した。ロープの先にはおもりのブロックが二ついている。
「かがり火は出会ったままです」
浩也が繰り返す。
「後ちょっとよ」
リエの甲高い声が上がる。
えっ?
と浩也の絶句。
視界からかがり火が忽然と消えてしまった。そんな馬鹿な。
「二つともかがり火が消えました」
「なっ、なんやてっ」
勇一が船を減速する。
「ちゃんと見えてるやないかあ」
勇一の言うとおり、振り返るとかがり火は二つとも見えていた。
「すいません見間違えました」
浩也は見間違いはないと思ったがとりあえずそう言った。
「あっ、消えた」
今度はリエが言った。
「なんてよぉ」
勇一は上げたエンジンをまた下げた。
「勇一、エンジン切って」
リエが駆け寄って早口で言うと、勇一は素直にエンジンを切った。
隆栄丸から一切の照明が消える。
タイミングを合わせたように黒いちぎれ雲が神無月を覆った。漆黒の闇。ザワザワと波の音だけが騒ぐ。右手に伸びる和歌山の夜景、その左手は暗闇で微かに淡路側の灯が点在するだけだ。
浩也は、不規則に揺らぐ船底を這い蹲って躁船室までたどり着いた。
三人は躁船室で寄り添うようにしてかがり火の方を見た。
かがり火はひとつになったり二つになったり、全部消えたりしている。
時折船底を突き上げる小さな揺れが恐怖心をあおり立てた。
「なっなんなんやしょこれぇ」
勇一の声が裏返える。
「船よ、船が近づいてるんやわ」
リエが震えた声で言いながら、浩也のフリースを掴んだ。
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小説「神無月の頃」 その13
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いつの間にか船は速度を落として港内に入っていた。
今年の神無月の満月は十二月五日。
「貴志さん、ありがとうございました」
浩也は下船して丁寧に頭を下げた。
「で、十二月五日行くんか?」
「はい、お願いします!」
深々と頭を下げる浩也の足下に、舫ロープが飛んできた。
「それ、結んでくれや」
勇一は浩也に指図したが、浩也は結び方を知らない。リエが教えようとすると勇一が上がってきた。
「こんくらい知っといてもらわなぁ神無月の夜に足手まといにならあ」
白い歯を見せると勇一は浩也に結び方を教えた。
数日後、浩也は松江から自転車に乗って、久しぶりに西ノ庄の山手にあるハーブ園に行った。母と西ノ庄のグリーン団地にいた頃に、二人でよく散歩に来たところだ。
母はハーブが好きでここに来たのではなかった。
ここから和歌山の海を眺めるのが好きだったのだ。
浩也の幼い頃―――。
ハーブ園の眼下には、市街地から続く海原が広がっていた。母はしゃがむと自分の肩に手を置いて顔を寄せた。
「浩也、あの船見ておっきいでぇ」
住友金属に向かう大型の貨物船だった。
「お父ちゃんなぁあそこで働いてたんやで」
母は、市街地の中に林立する大きなタンクや煙突の方を指さした。それは住友金属だった。
「何してたん?」
浩也は小学生の低学年だった。
「鉄よ、鉄。鉄っていう大事なもんつくってたんよ」
「テツ?」
「もうちょっと大きいなったら学校で習うわ。世の中のためになる大事な仕事や。お父ちゃんはな、あの和歌山の住金で毎日一生懸命鉄をつくって、今の日本の便利な世の中をつくったんや。日本だけやない、世界中のためになったんやで。ただ、お父ちゃん働き過ぎたんや・・・・・・」
母はそこまで言うと涙を流した。
「お母ちゃん、ぼくが大きいなったらテツいっぱいつくるわ」
浩也は、遂に母からは父の死因を聞かされずじまいだった。
親戚のおばさんから、ある日突然逝ってしまったと言うことだけ聞かされただけだ。
浩也は、どんな死に方でも人間死んでしまえば皆同じだと思った。
眼下の和歌山の海は、いつもと変わらずただ青々とした海水をたたえているだけ。浩也は、平然となずむ和歌山の海にやりきれないもどかしさを感じた。
十二月五日の夕方、西脇漁港に集まった三人は山立ての道具を隆栄丸に積み込んだ。
道具は灯油の入ったポリタンク二つと笹竹。笹竹の端にはロープで結わえられたおもりのブロックが二つついている。
リエは父への供養の花束と酒を下げていた。酒は黒江で買った黒牛だ。
「その笹竹、位置出しして沈めるんですか」
「ああせっかくやからなあ」
浩也の問に勇一がにたりと答えた。
笹竹は、定めたポイントの目印として沈めるためのもの。
やはり、勇一は数十億円もの財宝を探すつもりなのだ。浩也にはそこまで付き合うつもりはない。母の手がかりを得ることで頭がいっぱいだ。
この航海で何も得られなければ諦めざるを得ない。その後、勇一が誰と財宝探しをしようと浩也の知ったことではないと思った。
隆栄丸が薄暮の港をゆっくりと滑り出す。陽は西の海に落ちきっていた。
沖の島に着くと、浩也がポリタンクを持って船から降りた。
浩也は崖を這って鉄筋籠に達すると、流木を集めて詰め込んだ。浩也を下船させた勇一はリエと共に地の島に向かう。
三人は、それぞれの島で暗くなるのを待った。
浩也は沖の島を選んだ。理由は沖の島の方に母が上陸した可能性が高いからだ。それは鉄筋籠の位置が地の島より低いことと、沖の島の方には船をつなぎ止める木が近くに生えていない事。
おそらく隆三は母を沖の島に降ろし、一人で地の島の方に行って磯の傍らに生える松の木に船をつなぎ止めた。二人はそうして紀伊水道が暗闇になるのを待ったはずだ。
風が強い。浩也の身体は一挙に冷やされた。しゃがみ込むとフリースのフードをすっぽりとかぶって膝を抱えた。吹きさらされた岩が浩也の腰を冷やす。たまらず立ち上がって松の木にもたれた。少しだけ風が遮られる。
西の空の夕焼けが眼球だけを温めているようだ。
それは美しいというよりかは不気味な赤さだった。水平線に墨筆を真横に引いたような雲が広がっていて、その水平な裂け目から漏れる夕日が、ちょうど火のついた炭火の芯のように赤らかと燃えている。
母はここでどんなことを考えていたのか。
浩也は中学二年の時、母に東京の大学に行きたいと漏らしたことがあった。
通知票の成績が良く、先生からほめられて有頂天になっていた学期末の日だった。
母が喜んでくれると思って言ったのだが、喜びの笑みではなく真剣な顔つきになった。 どんなことをしてでも東京の大学に行かせてあげる、と母は自分の手を強く握った。
お金のことなど考えもせずに、浩也はつい軽はずみなことを言ってしまったことを後悔した。
そのことがずっと重荷になって、高校に入ってからやはり就職したいと言い直しても母は言うことを聞かなかった。
母が学費のことで悩んでいるのではないのかと思うと、辛かった。お金のために、本当はあまり好きでもない隆三と付き合っていたのではないのだろうか。自分を東京の大学に行かせるためにあんな男と一緒になろうと考えていたのではないのかと。
浩也は急に居たたまれなくなって、立ち上がると大きな奇声を上げた。奇声はあっけなく潮風に消された。
見下ろすと怖気立つほど濃い海水が、音もなく砕け散っている。
浩也は、眼下の遙か海水の奥深くに吸い込まれそうな気分になり怯んで後ずさりした。 眼下でゆっくりと同じリズムでうねり返す海水は、いつの間にか黒と白の二色になっていた。
腕時計が六時半を指している。勇一と示し合わせた時間だ。
浩也は、鉄筋籠の流木に灯油をかけた。マッチを一本すってその籠に投げ入れた。ぼわっと火がつく。浩也は全ての流木に火が回ったのを確認すると、急いで岩場を降りた。
隆栄丸の灯りが東の方から近づいている。
浩也は海に背中を向けると這い蹲って岩場を下りきった。意外にも隆栄丸は既に岩場に着岸していた。
浩也はさっき隆栄丸だと思った船の方を見た。真っ暗な海には明かりはない。やはりさっき見たのは隆栄丸だったのだろう。暗闇なので距離感がないのかもしれない、と浩也は思い直した。
「ど、どぅや上手く火ぃついたかっしょ」
勇一がせかすように言う。
「はい」
浩也は答えると隆栄丸の艫にしゃがみ込んだ。
隆栄丸が真っ暗な海を東に進み始める。
「わぁ」
浩也は東の空を仰いで思わず声を上げた。
地の島の切れ間に黄金色の満月が浮いている。
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