「ぼくにはなんの手がかりもないのです」
 浩也は訴えるように眼差しを向けた。



「ワイやって知るかぁ。だいたい、心中やからって保険金もおりんのやど。おやじもうかばれんわ。帰りやがれっ」
 勇一は、唾を飛ばして浩也を追い返えした。


 家の中から杖をついた老婆が現れた。老婆は浩也の顔をまじまじと見ると、たまらずすすり泣いた。勇一は舌打ちをすると嫌悪感を露わにしてそそくさと家の奥に消えていった。

 入れ替わるように、若い女が出てきた。
 やはり長身だが、勇一のように陽に焼けてはいない。肩にやっと届く髪は淡い栗色に染められていた。姉にしては勇一と全然似ていない。

 女は泣き腫らしたのか色白の目元が赤らんでいた。浩也に近づくと、女は手に下げた大きな紙袋を差し出した。


「これ、船の中に置いてあったんやけどあんたのお母さんのとちやう」
 女はか細い声で言うと、紙袋からベージュのフリースを少し出して見せた。



 間違いなく母のものだった。浩也は頷くと女の差し出した紙袋を手に取った。



「あの、お母さんのことについて何か知りませんか?」
 浩也の問に女は黙って首を横に振ると、老婆を介抱しながら家の中に消えていった。



 結局貴志の家からは何の手がかりを得ることも出来なかった。駅に向かう浩也の身体を浜風が冷やす。浩也は母のフリースを取り出して羽織った。ファスナーを全部上げると、首をすぼめて前襟で口を覆った。母の匂いやぬくもりまでも未だ残っているような感じだ。駅のベンチに腰掛けた浩也は目を閉じた。幼い頃からの母との思い出が、断片的に浮かんでは消える。



 ふと内ポケットに何やら感触を得た。取り出すと、折りたたまれた古びた用紙だ。全体黄ばんで朽ちている。広げてみるとミミズのはったような文字や図のようなものが書かれてあった。母が何故こんなものを持っているのか、これが何なのか、浩也には全くわからなかった。



 目を凝らして眺めていると浩也の携帯が鳴った。加太の祖父からだった。直接会って話したいことがあるとのことだ。浩也は、その足で加太の父方の実家を訪ねることにし、反対側のホームに移動した。



 二里ヶ浜から加太までは十分ほどの距離だ。



 父方と言っても、浩也の父亮作は浩也が生まれて間もなく亡くなっていた。不慮の事故だった、と母は詳しくを語ってくれなかった。



 父の実家は漁師町の加太の端っこだ。加太は南海電車加太線の終着駅。浩也が母と二人暮らしをしていた西庄から、電車で二十分ほどの距離だ。その途中に貴志の西脇がある。



 父が亡くなった後も、浩也は母に連れられてよく加太の実家を訪れた。
 小学三年にもなると浩也は一人電車に乗って、祖父母の家まで行けるようになった。特に夏場、海水浴場の近くにある実家に数日泊まり込むこともあった。
 その頃、浩也は何度か父のことを祖父母に尋ねたことがある。祖父母は浩也がもう少し大きくなったら教えると言葉を濁した。



 母が行方不明になってから、浩也は妙なことが気になっていた。
 それは父の命日が十一月四日で、母のいなくなったのが十一月五日と似通っていることだ。
 藁をも掴む思いの浩也は、数日前に父方の祖父に電話でその事を話した。祖父は、「亮作が呼んだんかもしれなっしょ」とだけ言ってすすり泣いた。



 浩也はきっと祖父が気を落ち着けて、何か思い出してくれたに違いないと思った。




ガバチャのひとり言

 浩也が勇一の家に行くのに乗った南海電車。ボクもしょっちゅう乗ってます。

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 和歌山市駅から加太までの枝線です。
 10年ほど前は大阪まで通勤しました。毎日乗ってると同じような場所に同じような人が座ってて、習慣ってあるよなと思いました。
 
 その頃ランドセル背負って車内を走り回ってた小学生たちが成人かと思うと年月を感じます。今も乗ってるのかもしんないけど子供から大人になったらさすがにわかりませんね。

 でも、大人は全然変わっていない人がいます。40才から50才ぐらいのおじさんおばさん。この年代あたりで進化が止まるのか。それとも必死に抵抗してるのか。

 そんな目でみてたら、向こうもボクのことジロジロ見てました(笑)
 この電車、廃線の話もあるようですがいつまでも残って欲しいものです。
 話したこともないけど懐かしい人に会える貴重な場所ですからねぇ。





 次の写真は和歌山市松江の一角です。
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 高度成長期、松江は住友金属の城下町として栄えた。鉄を作る住友金属はとにかく水涸れしない土地を日本中探してこの紀ノ川の河口を選んだ、らしい。

 九州などから炭坑の閉鎖に伴うこの地への移動が盛んに行われ、九州人街なるものもあったそうだ。「べっぷ」などという店の看板がそんなことを物語っているようでもある。

 そうやなぁ昭和五十年ぐらいはここいらもそらぁ賑やかでしたよ、とタクシーの運転手さんが当時を振り返える。

 ボクの家内の両親も九州の出身です。義母は長崎。手作りのチャンポン麺は絶品です。家内にその味を覚えて欲しいと思っているのだが、いまひとつ追いつけない何かがある。   

 でも、チャンポン麺以外は家内の料理が勝ってきたような気もする。と、ブログを時々チェックしている家内にサービスでもしておこう。



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超燃える鮎友釣り もヨロシクグッド!

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