オヤジが「馬路温泉」の泉源を見つける役割を与えられていた
 という話を聞いたのは最近のことである。

 役場勤務で住民課に属していたからだろうか。
 いずれにせよ、40年前に村内をくまなく調べ
 今の「馬路温泉」の建っている場所に一番良い泉源を見つけたとのことだ。


「あそこはもともと田んぼやったからな」
「民家はなかったっけ?」
「ほら、対岸にアン兄とアン姉の家が一軒家あっただけよね」


 アン兄とアン姉・・・
 忘れかけてたおぼろげな記憶がよみがえった━━━



 アン兄(にい)
 村人は皆そう呼んでいた。

 赤銅の初老顔は鬼瓦のように厳つく、片方の腕が無かった。
 アン姉(ねえ)はその妻だった。

 終戦の混乱の中、満州からアン兄がアン姉を連れて帰ってきたと大人は言っていた。

 アン姉は私たち子どもにとって最大の恐怖だった。
 いつもつぎはぎの大きな風呂敷袋のようなものを背負って、各家のごみ箱をあさっていた。

 特に年末年始は
 食べ残しが多く捨てられる時期だったようだ。

 私たちは悪さをして親から叱られるとき
「アン姉に連れて行ってもらうぞね」
 と言われると恐怖で体が震えワンワン泣いたものだ。

 子供たちの間では
 悪いことをしたらアン姉に連れていかれてアン兄に食べられるとの噂だった。

 少し学年が上がると
 アン姉とアン兄は子供たちからの格好のからかいの対象となった。

 アン兄が道を歩いていると
 私たち悪ガキグループは追いかけてアン兄の背中に向かって石を投げた。

 アン兄はなかなか取り合わないが、時々振り返って私たちを怖い目でにらみつける。
 私たちはワーワーと騒ぎながら一目散で駆け逃げるのだ。

 思い返せば、私が今近所の小学生たちから石を投げられたりしたらどう思うだろう。
 やはりそれは、ただ悲しいだけで何もできないような気もする。

 夏、私たちは川で泳いでいた。
 そこにアン姉がクワをもって河川敷の畑を耕しはじめた。

 私たち悪ガキグループは
 おい、と意地悪な笑顔で合図しあうと
 一斉に河原から石を投げ始めた。

 アン姉がひーっと言う悲鳴を上げて逃げまわる。
 私たちは面白がって容赦なく追いかけて石を投げ続けた。

 アン姉は日本語が話せないらしく、訳の分からない言葉を発しながら逃げ回った。
 そのうち仲間の石がアン姉の額に命中した。

 アン姉は額を手で抑えた。
 血がにじんでいる。
 私たちの動きが止まった。

 すると竹藪の方から怒声とともにアン兄が現れた。
 私たちは踵を返すと一斉に駆け逃げた。

 一番年下のケイジがもたついている。
 アン兄は血相を変えて追いかけてくる。

 振り返るとケイジが転んだ。
 ワンワン泣いているが、足が溝か何かの中に入って抜けなくなったようだ。

 必死でもがいているケイジの傍らに大きく肩で息をするアン兄が追いついた。
「ケイジが食われる」
 私たちは恐怖で声も出ず体が動かなかった。

 アン兄がしゃがみこんでケイジの体をつかむ。
「もうだめだ」

 私たち悪ガキグループは草むらからその様を息をひそめて見ていた。
 すすり泣いている者もいる。
 ケイジの叫び声が河原中に響いた。

 アン兄は、ケイジの足をさするようにして溝から上げると
 軽々と片腕に抱きかかえて草むらにそっと放した。

 ケイジがワンワン泣きながら私たちの方に逃げてくる。
 アン兄はその様子を怖い顔で、と言うよりかはむしろか悲しそうな目で見つめていた。
 そして、ケイジが私たち仲間のもとにたどり着いたのを確認すると
 やんわりと口元を緩めた。

 アン兄はのっしのっしとアン姉のたたずむ畑に戻って行った。
 アン姉の額に、腰にぶら下げていたタオルをあてがうと
 クワを担いで竹藪の方に消えていった。

 私たち悪ガキグループはそんなことがあってから
 アン姉をからかうのをやめた。

 私は中学生になった。
 同じように小学生がアン姉に石を投げているのを見て私は注意した。

「お前ら止めとけ、向こうにアン兄がいたぞ」
 子供たちはワンワン騒ぎながら逃げた。

 アン姉が振り返ってじっと私の方を見る。
 アン姉の視線は私からやがて遠い山の稜線に移って、いつしか寂しげな表情に変わった。


 私たちが成人した頃、アン兄は亡くなった。
 アン姉は大阪にいる親せきのもとに引き取られたということだ。

「アン姉はどうなったの?」
「アン姉は、大阪に行ってからすぐ車に敷かれて死んだらしい」
 と答えたっきり母は口をつぐんだ。


 戦争中に満州でアン兄と知り合ったアン姉。
 どれほど辛いことがあったのかは想像に難くない。

 私は子供の頃を思い出して本当に悪いことをした、と思った。

 そして、アン姉に、またアン兄に
 村でいくばくかでも楽しい思い出があってくれたら良いのだが、
 と今更に願うばかりなのである。

キャプチ1230